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 卓球王国 編集後記 2008年spacereditor's note of World-TT
2010年 2009年 2008年

08年11月号

■ それぞれの夏、選手と監督

今夏−−埼玉・春日部市で行われたインターハイから北京オリンピック、そして神戸でのクラブ選手権を取材した。
とりわけ、戦う選手と監督・コーチのそれぞれの現場での一体感に注目した。選手の誰もが「勝ちたい」という願望を持ち、監督・コーチは「勝たせたい」と必死になる。これがおおよその構図だ。
この夏も、選手との一体感で、すばらしい思い出作りを手助けした監督に出会うことができた。選手と監督の関係は的確なアドバイスから来る「信頼感」だと思う。短いインターバルでのアドバイスは、選手を生き返らせたり、また失望に追い込むこともある。
インターハイでの遊学館高校の選手と監督の一体感は、私が今夏見た中で最高のものだったと思う。監督の植木大氏は選手の実力以上の力を引き出し、それに選手たちも答えた。そしてまわりの予想以上の成績を残した。
「選手の力を出させてやれなかったら監督が悪いんですよ」。潔いその言葉に私は胸を打たれた。
一方、「?」と感じさせられる場面にも遭遇した。神戸でのクラブ選手権大会。2ゲーム目、負けた子どもがベンチに帰ってきた。監督が「あんた何がしたいの!?」と叱責する。まだゲームを残すその子は涙目になった。そして案の定負けて帰ってきた。そこでもまだ責めて、最後に涙を出すまで叱った。そしてチームメートが差し出すタオルで涙を拭いて、敗者審判のために、コートに帰って行った。
叱るには、相手に対する愛情が不可欠だ。
北京オリンピックから帰国すると、テレビで観戦した知人から「ベンチでは、監督やコーチはどういう役目をしているの」と質問された。その言葉の裏には、ベンチに戻った選手に効果的なアドバイスをしているのか、との批判的なニュアンスが含まれている。確かに現場では、監督やコーチからよりも、選手同士で励まし、戦術を確認する場面が多くあったかもしれない。しかし、それが直ちに監督・コーチとの信頼感不足につながるかというと、一概にそうとは断言できないと思う。
中国とか韓国チームの一体感は、日本を遙かにしのぐものだった。それは間近で見ていた私もひしひしと感じることができた。ベンチでの選手が監督を見る目が全く違った。そのことが、テレビで観戦していた人に前述のような批判めいた発言をさせたのだろう。だが私は、それがメダルにつながらなかったというのは早計であるような気がする。
ファンは、「ベンチ力」でゲームオールの一本を取ることができなかったものなのだろうかと言う。それがファン心理というものだろう。
しかし、ここで大切なのは、この現実をふまえ、反省して次に繋げる議論を重ねることだ。
今夏見たそれぞれの戦い−−私自身感じることが多かった。   〈発行人・高橋和幸〉


08年9月号

■ 応援する側、される側

北京オリンピックを約一カ月後に控えた7月5日、東京・代々木第二体育館でオリンピック代表壮行会が行われた。
主催したのは日本卓球協会とチームマツシタ。チームマツシタ社長の松下浩二をはじめ、スタッフ、関係者の方々の働きぶりは、端から見ていても目を見張るものがあった。会場には千五百人を超す卓球ファンが集まった。
まず驚かされたのは、切符売り場に松下の妻で、元ダブルス世界3位の松下明子(旧姓・武田)と、元ダブルス日本チャンピオンの小林美幸(旧姓・西飯)がいて、当日券を売りさばいていたことだ。
居合わせたシチズン卓球部監督の渡辺将人が、「家族総出ですね」と笑いながら通りすぎた。
まさに身内を総動員しての運営。後で気づいたが、松下のご両親も駆けつけていた。そこに松下がこのイベントに懸ける、熱い意気込みを感じた。
協会からの急な依頼にも、松下が首を横に振らなかったのには訳があった。かつて97年世界選手権マンチェスター大会で、松下は渋谷浩と組んだダブルスで銅メダルを獲得した。世界選手権での14年ぶりのメダル獲得に卓球ファンは沸いたが、祝勝会は行われなかった。協会は「前例がない」という理由で行わないというのだった。そこで協会とは関係のない有志たちが祝勝会を企画して、彼らの偉業を称えたのだ。その時のうれしさを、松下は忘れていなかった。
一般の卓球愛好者も参加できる壮行会というのはあまり例がない。通常、ホテルなどで行われるパーティー形式の壮行会だが、場所を体育館に移して、選手とサポーターである一般人とのふれあいを最大の目玉にした企画自体は非常にユニークだ。ところが、立ち上げ自体が遅かったのか、告知をする場所や時間が少なく、前売り券の売れ行きは芳しいとは言えなかった。
壮行会の行われる一週間前、日本リーグ大阪グランプリの一選手として、松下は試合会場にいた。その彼に、
「大変だね」と声かけると、
「いや、絶対やってあげたいんですよ。赤字になっても……」。
実際は、予想をはるかに上回っての入場者があり、非常に盛況だった。
会場には平野早矢香の両親と福岡春菜の母親も顔を見せていた。「良かったですね。こんな大勢の人に応援してもらって」と口を揃えた。
「一生に一度あるか無いかですから、今朝、徳島からやって来ました」。
福岡の母・知子は会場にいる娘・春菜に目をやりながらも誇らしげだった。
かつて「前例がないから」という理由で祝勝会を実施してもらえなかった松下は、今、協会理事となってそれを実行する立場に立った。「人に喜んでもらうこと」の幸福感を、自らが演出している。
プロ卓球選手の先駆けとなってから15年。彼にまた新たな肩書きが加わった。   (文中敬称略)
(発行人 高橋和幸)


08年7月号

■ 卓球の魅力に取り憑かれた人

1998年の11月。ドイツ・ブンデスリーガのデュッセルドルフチームが移動するミニバンの中に、僕は紛れ込んでいた。チームは、地元・デュッセルドルフで行われたヨーロッパチャンピオンズリーグ終了後、600km離れた北部の町・リューベックまで遠征に出かける。僕はその様子を取材するため、同行していた。
その時のチームメンバーは、サムソノフや、ロスコフ、そして日本人初のブンデスリーガーになった松下浩二選手ら。彼らとともに、夜を徹して車で移動。マネージャーやトレーナーが交替で運転してくれた。翌日、リューベックと試合をした彼らは、試合後すぐに車に乗り込み、デュッセルドルフまでの帰路、途中で小さな町に立ち寄って、一日卓球教室を開く。その町の子どもたちに手とり足とり直接指導していた。それが終わると、再び車に乗り込み、デュッセルドルフに帰ってきたのは深夜だった。
翌日は練習日。練習場に顔を出した松下に声をかけてみた。「すごいタフだね、みんな」。「こういうのは当たり前ですよ。時には会場セッティングをすることもありますよ」と、こともなげに松下は話した。
シーズン中は、試合の度に移動を続ける。サムソノフも、「もちろん、これが日常だよ」とさらっと話す。
この時のことを、10年経った今、急に思い出した。そのきっかけはーーー。
4月25日に、僕たち卓球王国チームは「全国百万石オープン」が行われる石川県金沢市へ向かった。この試合に参加するため、編集部員は徹夜で仕事を仕上げて車に乗り込んだ。運転は僕ともうひとり。翌日、早朝から予選に参加して5試合戦った。どうにか勝ち残り、2日目の決勝トーナメントまで進むことができた。みんな体はクタクタだったが、決勝トーナメントに進めたことで、疲れも忘れているようだった。今回は試合に参加するだけでなく、大会をサポートする実業団チーム「大宗」の取材も兼ねていた。社長の大西憲治氏は、石川県卓球連盟の会長を務め、地元卓球界に貢献している。大宗チームの主将・木村信太選手は、青森県出身だが、埼玉工業大を卒業して金沢にやってきた。その彼が社長に頼み込んで、日本リーグ入りを実現した。他の実業団に比べて、規模としては決して大きくない大宗にとって、日本リーグへの加盟は負担も大きかったはずだ。
「仕事もきちんとやります。卓球をすることで会社や他の社員に迷惑をかけません」。ダイナミックな試合ぶりとは裏腹に、木村選手の会社での細かな気配りには感心させられた。「きつい仕事をして、練習、試合…と、なかなか大変だね」と僕が声をかけると、「当たり前ですよ。社会人でありながら、好きな卓球ができるんですから」。どこかで聞いたような答えだった。そう、前述のデュッセルドルフで聞いた言葉と同じだった。
取材をすべて終え、東京に帰る途中、車中で編集部員のひとりが「疲れましたけど、楽しかったですね!」と言った。
卓球の魅力に取り憑かれた人は、世界中にたくさんいる。   (発行人 高橋和幸)

08年5月号

■ 勝利の意味するもの

その歓喜の輪の中に僕はいた。
世界戦広州大会女子団体戦予選、日本対韓国の五番、福原愛対文玄晶。ゲームカウント2対2で迎えた最終ゲーム。先にマッチポイントを握られた福原愛はそれでも強気に攻めた。
ジュースから逆に1ポイントを取り、韓国の文が返球したボールがオーバーした。その瞬間日本の勝利が確定した。福原の目に涙がにじんだ。そして拳を握りしめ、全身で喜びを表現した。久々に見る福原の涙。重い責任から解き放たれた安堵感から、プレー中青ざめていた顔に赤みが差し、ベンチに帰ってチームメートと抱き合って、そこで大泣きをした。周りをはばからない落涙は感動的なシーンだった。どうしても勝たなければならなかったゲームを「みんなの力で勝ちました」と殊勝にコメントする。
キャプテンの藤井寛子が、エースの平野早矢香が、福岡春菜が、最年少の石川佳純が勝利のうれし泣き、そしてみんなが肩を抱き、喜びに酔いしれた。
日本ベンチの正面から、プレー中の福原と必死に応援するベンチの表情をカメラに収めたくて対面にいた私は、勝利の瞬間、広角レンズ付きのカメラを持ってベンチに走った。選手もプレスも、もうどうなっているのかわからないくらい、グシャグシャの状態だった。それぐらいこの勝利の意味は大きかった。それまで全勝同士の戦いで、勝利したほうが予選1位通過となり、断然メダルに近づくことを誰もが承知していた。だから両チームともこの一戦にかけていた。そして結果として、この勝利で日本チームは勢いづき、日本男子も躍進。男女とも銅メダルを獲得する原動力となった。この快挙は1979年の平壌大会以来、実に29年ぶりという。
必死に戦う選手たちを目の当たりにして、「勝利こそが一番」というのは失礼かもしれないが、でもそこはやはり「勝ってなんぼ」の世界なのだ(特に日本を代表して参加するような大会は)。
今回の世界戦で感じた感動は、このことに尽きると思う。これまで結果を出せなかった日本男子にしても帰化選手を擁しての銅メダルではあるが、コートサイドには大きな感動が走った。
私が帰国すると、会う人、会う人が「卓球のすごさ」「ダイナミックさ」を口にする。彼らは皆、それまで全く卓球に興味のなかった人たちだ。テレビ東京やJスポーツでテレビ放映されたおかげで、初めて卓球観戦をした人も多いようだ。とくに男子の日本対韓国戦での壮絶なラリーの応酬は、観ている人を虜にしたらしい。そんな話を耳にすると、コートサイドで卓球のすごさを常に感じている私は、『やっとわかってもらえた』気がして、ことさらうれしくなった。
今回の世界戦は、ふだん、卓球を観ることのない一般の人たちにも「卓球のすごさ」をまざまざと見せつけた。また、男女アベック銅メダルという好成績が、一般の人たちにいっそう卓球への興味を湧かせたと言えるのではないだろうか。   (発行人 高橋和幸)


08年3月号

■ 世界に向かって

今年は、2月の世界選手権広州大会、8月の北京オリンピックと、ビッグイベントが続く。卓球ファンの期待は、日本選手がどれぐらい活躍できるかにあるだろう。僕たち報道する側も、やはり日本選手を応援しないわけにはいかない。そこでは普段感じることのないナショナリズムが胸を熱くする。
すでにオリンピックに出場が内定した福原愛、平野早矢香、韓陽選手は日本の国旗を背負って戦うわけだから、その重圧たるや相当なものだろう。しかし国代表として、胸に日の丸をつけて出場するからには、後ろに日本という国が後押ししていることを自覚して欲しいと思う。勝ってメダルを獲るだけが目的ではない。死にものぐるいで試合をして、自分の出せる力を120パーセント出し切れば、誰も文句を言わないと思う。
長い間、国際試合を取材してきて思うのは、日本選手は他国の選手に比べ、負けても淡々としていて悔しがらないということだ。そんな姿を見せるのは格好悪いと思うのかもしれないが、笑顔さえ見せる時がある。かつて世界チャンピオンに輝いた伊藤繁雄さんは、世界大会に出発する時、『もし世界一にならなければ生きて日本に帰らない』という覚悟で飛行機に乗り込んだ。そして見事栄冠を手にした。 
元日本チャンピオンの高島規郎さんも試合中負傷した足を恨めしく思い「この足一本が無くなっても良いからこの一本のカットを拾わせて欲しい」と思ったことがあるという。「決死の覚悟」で戦っているそんな選手を、誰が責めることができるだろうか。その姿に感動して拍手すら送りたくなる。1978年、タイ・バンコク。アジア競技大会の男子シングルス準々決勝で、高島選手は韓国の強豪選手と対戦した。そのベンチに僕はたまたま入っていたのだが、彼の試合は壮絶なものだった。会場中が彼のプレーに目を奪われ注目した。左右に攻め込むスピードあるドライブを必死に拾う彼の姿に感動した。試合後、彼のもとに、戦った相手の韓国のファンが花束を持ってきた。「とても感動しました」と言って涙を流しながら高島選手に手渡した。僕は、ずっと間近で見ていてスポーツのもつ崇高さに胸が震えた。
1998年、同じくバンコクで開催されたアジア競技大会・混合ダブルス決勝。韓国の金武校選手は大激戦の末、中国ペアの選手に敗れた。彼女は試合後30分以上もコートサイドから離れなかった。悔しさに彼女は立ち上がれなかったのだ。その姿にアスリートの厳しさを感じた。しかしその1時間後、気持ちを切り替えた彼女は、シングルスで勝利した。その一部始終を見ていた僕は、なんだか心が和らぐようであった。
スポーツは、勝負から生まれる「ドラマ」と、凡人ではまねのできない技術から来る「感動」で成り立っている。
だから僕たち報道する側も、それらを伝える使命が課せられている。選手に負けないぐらいの気迫で世界大会に臨みたいと思う。    (発行人 高橋和幸)


08年1月号

■ 愛ちゃんから福原愛へ

常に注目され続けてきた愛ちゃんが、世界の舞台で苦戦を強いられている。世界の壁がもう少しのところで破れない。日本のエースであることは誰もが認めるところだが、今や彼女に期待するのはもうひとつ上のステージ。もちろん彼女自身がそれを一番承知しているだろう。その様子は身近で取材する側にも痛いほどわかる。今はまさに、もがいているようにも思える。
9月末に中国・成都で行われた女子ワールドカップの予選リーグ。決勝トーナメント進出をかけた一戦でオーストリアのリュウ・ジャに敗れた。中国出身のベテラン選手は、愛ちゃんに1、2ゲームを先行されながらも、老獪なプレーと作戦で挽回した。
敗戦後、愛ちゃんの顔はこわばり、『どうして負けたのだろう』という表情をした。『この相手には勝たなければ』『ここでは負けられない』というプレッシャーからか、3ゲーム目からのプレーが単調になった。コートサイドで撮影するものでも、完全な?作戦の失敗?を感じるのに、聡明で経験豊富な彼女が、どうしてこんな単純な落とし穴にはまってしまうのか疑問だった。
試合後、私はホテルに帰る選手用シャトルバスに乗り込んだ。発車寸前に愛ちゃんが乗ってきた。顔は青ざめ、無表情。バスの外からサインを求める子どもたちにも珍しく応じず、自分の世界に入っているようだった。眉間にしわを寄せ、口は固く閉ざし、とても話しかけることができなかった。長いこと彼女を見てきたが、こんな愛ちゃんは初めてだ。一番最後列に乗っていた僕に、彼女はバスを降りる直前まで気づかなかった。もしはじめに僕の存在に気がつけば、気遣いを忘れない彼女は、違う行動をとっていたのではないだろうか。
現在の愛ちゃんの置かれている立場は彼女自身が一番よく知っているはずだ。周りからの異常とも思える期待感と注目度で彼女はかつて潰されそうになった時もあったが、福原家全員が一体となって乗り越えてきた。しかし今、プレーをしてコート上で結果を出さなくてはならないのは福原愛自身なのだ。卓球界、いや全国民の期待を背負って、この19歳の少女は奮闘している。
長い間卓球界は、このか弱い少女だけに頼ってきた。暗いと言われた卓球が世間の注目を浴び、卓球に携わるものにとって胸を張れる状況を作ってくれたのは愛ちゃんなのだ。しかし世間は冷酷だ。常に勝つことを余儀なくされる。「愛ちゃんは最近勝てませんねー」「北京でメダルは取れますか?」 無責任きわまりない言動が飛び交う。
しかし私は、成都で「愛ちゃんブランド」からも、家族からも離脱して、競技者としての「福原愛」に脱皮を図ろうとしている姿を見た気がした。彼女はこの先もまだまだ、走ることを止めないだろう。そしてその結果が出た時に、世界の晴れ舞台がきっと用意されている。ただいつの時も私たちは、ひたすら声援を送るだけだが……。 (発行人・高橋和幸)

 
   
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