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 卓球王国 編集後記 2006年spacereditor's note of World-TT
2010年 2009年 2008年

06年11月号
「爽やかな夏の戦い」
ちょっといい話だった。
聞いたこちらまで心があたたかくなったので、皆さんにもここで紹介しようと思う。
それは、今夏の大阪でのインターハイでの出来事だった。男子シングルスで優勝した高木和卓選手(青森山田高)。
優勝後の記者会見が終わり、しばらくして再び彼は会見場に戻ってきた。しかし、そこには私以外誰も残っていなかった。 
「僕、記者会見で言い忘れたことがあって……」と高木和。顔見知りの私に、もう少し話を聞いて欲しいという様子だった。「何?」と私。
「僕、5回戦で上宮の御内健太郎選手と当たったんですけど、試合が終わって握手した時、相手の御内君から『絶対、優勝してください』と声をかけられたんです。そしてその後、相手のベンチに挨拶に行ったら、河野正和先生からも『がんばれよ』と声をかけてもらって……。勝った相手からそんなことを言われて、僕はとてもうれしかったんです。そのことを言い忘れていたので(ここへ)帰ってきたんですけど……」。
いい話だなあと、私は心の中からこみ上げてくる何かを感じずにはいられなかった。
そのことを、大会役員としても働いていた河野先生に伝えると「じーんときますわ」と涙ぐんでいた。敵であっても、戦いが終わればお互いの健闘を称えるスポーツマンの美しい姿を見た。私自身、久しぶりにすがすがしい気分になることができた。
最近のスポーツ番組を見ていると、なぜか感動する場面が少なく感じる。異常なまでの前振りで盛り上げるテレビ局。ボクシングの亀田興毅選手の世界戦はその最たる例だ。まるで勝つことが前もって決定していたかのような番組構成だった。ヒーローを作るための大人社会の醜さが露呈した。見ていて、私はすごくいやな気分にさせられた。
私は亀田選手を撮影したことがある。その時の彼の印象はとても礼儀正しい好青年というものだった。それがテレビを通して見る亀田は、言葉使いも知らない、ただのガキだった。こんな子に世界チャンピオンにはなってもらいたくない。
かつて、6人の世界チャンピオンを育てたエディ・タウンゼントさんは生前、こう言っていた。「ボクシングは戦争よ。リングに上がったら相手を殺すの。試合終わったら友だちになりなさい」。そう、エディさんは、試合が終われば相手も同じボクサー。リングを降りたら相手を尊敬しなくてはいけないと常々言っていた。亀田に欠けているのはここのところだ。
再び、高木和選手。「御内君のためにも優勝したかった」という言葉を聞いて、私はエディさんや亀田のことが浮かんできた。亀田と高木和の年齢はほとんど変わらない。だが、ずっとずっと大人の高木和選手に、私は心からおめでとうと言いたい。
爽やかな夏の戦いを、今年も見ることができた。  
〈発行人・高橋和幸〉

06年9月号
「がんばんないよ」
「おまはん(あなた)、辛い時はなにくそと思ってがんばんないよ(頑張りなさいよ)」※徳島弁
18歳で故郷・徳島県鳴門市を後にして上京する私に贈ってくれた母の言葉だ。
私事で恐縮だが、6月27日に肝臓癌で私の母はこの世を去った。
「頑張る」という言葉を好んだ母は、卓球選手の中でもとりわけ、福原愛選手の大ファンだった。彼女の一生懸命なプレーが、母の心を打ったらしい。しかし、それはすべて、テレビを通しての愛ちゃんの姿だった。「愛ちゃんはどんな娘なん?」「愛ちゃんの試合をこの目で見てみたいなあ。元気が出てきそうやもんね」「あのサーブ(王子サービス)はすごいんやろね。目で追えるかなあ」などと言っていた。私はそんな母のために、愛ちゃんに直接、色紙にサインをしてもらって、この春、母に渡した。母はそれを入院先のベッドの枕元に置いて、見舞ってくれる人に自慢していたらしい。
間近で愛ちゃんの試合を見せてやりたいと思っていた私は、今夏のインターハイで、愛ちゃんが大阪に来るかもしれないと告げた。「大阪かあ」とひとことつぶやいた。が、それきり口をつぐんだ。
亡くなる二十日ほど前、「古里を語る」という、徳島出身の人物を紹介する地元紙のシリーズに私が登場した。その記事の中で、「次の夢は?」という記者の問いに、「子どもからトップ選手までを鳴門に招いて、鳴門で卓球フェスティバルをすること」と答えた。それは、歩くことがおぼつかなくなった母に、生の愛ちゃんのプレー姿を観せられる最後の手段だと思ったからだ。大阪までの移動は無理でも、地元なら観戦も可能ではと考えた。
母の危篤を知らされた朝、私はスタジオでの撮影を残していた。私はすぐに徳島へ向かうべきか迷ったが、仕事を残しては行けない。その時の被写体は腕時計。撮影をしながら、時を刻む時計の非情さを感じていた。その時の一秒一秒がなんとももどかしく、長く感じたことか……。人間は、生まれてから誰しも死に向かって時を刻んでいくのだと痛感していた。
撮影後、徳島行きの飛行機に乗った。羽田発12:45。母の入院している病院に着いたのは14:20。母が息を引き取ったわずか10分後だった。ひとつ前の飛行機に飛び乗っていれば死に目に会えたかもしれない。だが、母は仕事をキャンセルして駆けつけても喜ばなかっただろう。
実家は衣料品販売の自営業を生業としていた。と言っても、その昔は、今のように既製品は多くない。運動会、学芸会など学校の行事があると、皆、着て行く洋服をわざわざ誂えるのだ。母は、注文に応じて洋服を縫う。当日の朝まで徹夜でミシンに向かっている母の姿が、今でも目に焼き付いている。
実家の商売は、ほとんど母が仕切っていた。強引なところもあり、家族から非難されることもあったが、実によく働く、太陽のような存在だった。
「がんばんないよ」
肝に銘じて、まだまだ頑張らなくてはならない。    
〈発行人・高橋和幸〉

06年8月号
「やればできるのだから」
〜全国大会を目指す君たちへ〜
全中予選、インターハイ予選など全国大会の予選があちこちで行われている。
この季節になると思い出すことがある。もう今から34年も前のことだ。その頃私は、徳島県の公立高校の卓球部員だった。毎日、卓球の練習に明け暮れていた。卓球部監督の田村泰先生はとても厳しい人だった。勉強と卓球の両立、礼儀、練習態度などなど、事細かに注意された。正直、息がつまる時もあった。
ある日、私のダブルスの試合を見た先生が、私をきつく叱った。「お前は自分ひとりで卓球をやっている。ダブルスは一足す一が三にならないと勝てないんだ」。その当時は『何でだ?』としか思えなかった。『自分の最高のプレーをすればいいんじゃないか』僕はそう思っていたのだ。パートナーを思いやる気持ちに欠けていた。団体戦で勝っても、「勝ち方が悪い。相手の調子を出させた」と叱られた。当時は三人の総当たり戦だった。次に、相手選手が味方の選手と対戦する時に、相手がベストコンディションになるような勝ち方をするなということだ。
ただ、今でも思い出す先生の言葉がある。「お前たちもやればできるんだ」。
当時は深く、その意味を考えたことはなかったが、今にして思えば、この言葉がどれだけ自分たちを奮起させてくれていたことか。公立高校という、実力的にハンディのあるチームながら、インターハイに出場できたのも、この恩師の言葉があったからだと思える。
現在、本誌で連載中の「ゼロから始めて強くなる!」は、公立中学の卓球部にスポットを当てて、その学校の練習方法&指導術を紹介している。もともとこの企画は、「公立校ながら独自の指導や練習で、全国大会目指して頑張っている学校がある。幼い頃から卓球をやって卓球エリート校と呼ばれる私立に通う選手たちのことは本誌でたびたび紹介するが、読者のほとんどは前者だ。トップ選手ばかりではなく、地道に努力している卓球選手(チーム)を紹介しよう」ということで始まった。私のかつての経験もオーバーラップし、個人的な興味も多分にあった。実際、かなりの反響をいただいている。
私も現在、地元の公立中学の卓球部をたまに見ているが、中には『どうせ公立だし。エリート校にはかなわないよ』といった、チャレンジすることなく、最初からあきらめてしまう生徒がいる。
もちろん、卓球エリートたちには個人戦では勝てないかもしれない。だが、チームで戦うことは、また別のチカラを発揮できる可能性を秘めているのだ。仲間を思いやる。仲間のために頑張る。それがひいては自分のためになる……。
人間にとって何が大切か。勝負だけではない、もっと大切なものがあるはずだ。  
全国大会を目指して頑張っている諸君! 試合に負けても決してくさることなく、夢と将来を見つめてほしい。そうすれば、必ず希望の道はひらける。
「君たちも、やればできるのだから」
〈発行人・高橋和幸〉

06年6月号
「不屈の精神力」
「自分を信じて、一生懸命努力すれば誰でも必ず夢は実現します。だから皆さんも目標を立ててがんばってください」。
3月26日に徳島県鳴門市で行われた「藤岡明美さんと卓球を楽しむ会」での藤岡さんの挨拶。シドニーパラリンピックをはじめ、様々な国内外の障害者大会で実績を残している、郷土の先輩だ。
実は、私は彼女を機会があるたびに取材させてもらっている。初めてお会いしたのは何年前のことだろう。障害者大会の会場だったと思う。足に障害があるとは思えない機敏な動きの卓球にまず感心した。そして屈託のない笑顔。全身で卓球を楽しんでいる姿に惹かれた。聞けば、私と同郷の徳島出身。さらには、仕事を持ったバリバリのキャリアウーマン。「この人を追ってみたい」という気持ちがわき上がり、帰省した折や障害者大会の取材の折に、藤岡さんの写真を撮ったり、話を聞かせてもらったりしている。そんなわけで、先月、所用で帰省した折に、前述の大会があるというので足を運んでみたのだ。
この大会は、中学教師の榎並正人、理子夫妻を中心に、藤岡さんの講演を聴いて感動を覚えた父兄の人たちが加わり、毎年開かれている。賞品もユニークで、大根、レンコンなどの野菜類、地元名産のわかめ、饅頭などに混じってティッシュペーパーなども見える。「私は幸せ者です。好きな卓球をしていてこのような大会をお手伝いできるのですから。本当にスタッフの皆様に感謝しています」。
試合はグループ分けでそれぞれ優勝チームが出る。大会終了後、「どのチームが一番強いのですか」と尋ねたら、「ですから、卓球を楽しむ会ですので一番とかないんです」とのこと。
なるほど、他の大会では見られない笑顔があちらこちらで見ることができる。試合終了後も、藤岡さんは子どもたちと球を打ち続ける。「せっかく来てくれてるんですから全員と打ちたいですよね」。一度打ち終わってもまた列の最後尾に並ぶ子どもたち。汗だくになってもやめようとはしない藤岡さんを見かねて、関係者が休憩を促すくらいだ。列に並ぶ子どもたちの中から「あの人ほんまに足が悪いんだろか」という声も。動きのいい外見からは、足に施した金属器具をはずすと立つことすら儘ならない姿を誰も想像できない。その上昨年、利き腕の右手も不慮の事故で不自由になった。左手で始めて一年もたたずに全国大会では上位に食い込む。その精神力に頭が下がる。「神様は私に何度も何度も試練を与えますねー」気丈なところを見せるものの、当時は精神的に落ち込み、何日も眠れない日が続いたという。卓球からも遠ざかっていたが、「右が使えなんだら左手でしたらいいんで」というお嬢さんの一言で再び火がついた。「そうだ、左手がある」。 
藤岡さんの次の目標は、かつて右手で勝った人に左手でもう一度勝つこと。そして国際大会に再び出場して優勝すること。子どもたち相手に真剣に球を打つ姿を見て、彼女ならできそうな気がした。
〈発行人・高橋和幸〉

06年4月号
年度末雑感 

 今年度(平成17年度)記憶に残る選手は誰か? 僕は迷うことなく二人の天才選手を挙げることができる。
ひとりは水谷隼選手。上海大会での戦いぶりは見事というほかなかった。世界ランキング8位の荘智淵選手を相手に、ブロックから攻撃という自分の卓球を最大限に生かし、高校一年生になったばかりの16歳は、世界大会という大舞台の雰囲気にのまれることなく戦った。僕を含め周りが興奮する中でも、彼は大げさに自己表現するでもなく淡々としていた。
その試合から3ヵ月後、成田インターハイ団体決勝で、青森山田高の選手として、シングルス三連覇を成し遂げた岸川聖也選手(仙台育英学園高)と対戦した。お互い、ドイツのデュッセルドルフに卓球留学し、毎日練習している仲。大接戦の末、水谷に軍配が上がった。
試合後、コートサイドで目が合った。彼は少しはにかみながらも微笑んでいた。それは世界戦の時と同じ仕草だった。それから2ヵ月後、ドイツ・ブンデスリーガの取材でドイツに渡った僕は、試合に向かう車に同乗した。「キミは、あんまりうれしさを外に出さないタイプなんだね」と僕。「自分では一生懸命にやっていてもそう見られないし……」。お互い、年齢の隔たりからか、会話がかみ合わなかった。たぶん、ポーカーフェイスに見えても内面には熱いものを持っているのだろう。だからこそ、僕は彼のプレーに魅了されたのだと思う。
沖縄での全日本社会人(05年11月)で久々に切れの良い小西杏選手を観た。そう、もうひとりはアスモの小西選手。
バックの打点が高く、常に先手を取り、自分のペースで試合を進めた。全日本でも同じような戦いぶりで決勝まで駒を進めた。彼女は水谷と異なり、感情を表すタイプだ。金沢咲希選手に敗れた後、あふれる涙を抑えることができなかった。
全日本社会人が完璧だったがために、全日本への意気込みは相当だったと推測する。現在、日本の女子でスピードと勝負にかける意欲は一番なのではないかと思う。
しかしながら、この天才たちには未だ何かが欠けていたのだろう。水谷、小西、二人は日本チャンピオンになれなかった。しかし、近い将来、彼らの夢は実現されるに違いない。
*    *
ところで、話は変わって、恒例の卓球王国大賞が決定した。(詳細は67ページ)
今回から卓球界で世界的に貢献した人に贈られる『荻村伊智朗賞』が新設された。世界チャンピオンであり、ITTF(国際卓球連盟)会長という重責を果たした荻村氏の功績は素晴らしいものがあった。荻村氏の十三回忌である今年。卓球王国では、今年を「荻村イヤー」として氏の書籍を出版、本誌でも記事を掲載している。この節目に、永くその名を世に残したいと願って、ご遺族の許可を得て、この賞を創設した。その第1回受賞者には、元世界チャンピオンで昨年、非業の死を遂げた故・長谷川信彦氏が選ばれた。

〈発行人・高橋和幸〉


06年2月号
真実の社会貢献

 11月に大阪で開催された第6回日本障害者卓球選手権の会場。選手の後方で、おそろいのブルーのジャンパーに身を包み、球を拾っている人たちの姿が目についた。参加者でもないし、その関係者でもなさそうだ。
和歌山のある選手が、額の汗をぬぐおうともせず、試合を終えるとまっすぐに、その人たちの控え所にやって来た。歩行と言動のおぼつかないその選手は、「あまり親切にしてくれたので、どうしてもひと言お礼を言いたくて……」とやって来たのだった。
ブルーのジャンパー集団の人々は、大会が開催されていた大阪市舞洲障害者スポーツセンターの近くにある住友化学の社員の皆さんだった。競技副委員長で大阪大学大学院教授の辻裕氏が、住友化学に大阪大学の卒業生を送り込むという関係から、辻氏が住友化学にボランティアのお願いをしたらしい。
「企業における社会貢献とは、商品を生産するだけではなく、その地域の人たちに幅広い観点で貢献することだと思っています。企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)のもとに、本日、体の不自由な人たちに代わって球拾いでもできれば……と、お手伝いに来ました」と代表の石丸裕氏。
これは、あくまでも自主活動だそうだ。会場で車イスを押したり、フェンスを片づけたりのボランティア活動。おそろいのブルーのジャンパーは自前。昼食も、もちろん自前で、大会開催者からもとても感謝されていた。
柴田幸男日本障害者卓球連盟理事長も、「本当に頭が下がる思いです。皆さんの大切な休日をつぶして、障害者の選手のために球拾いに来てくれているわけですから、本当にありがたいです」。
ブルーのボールパーソン(大会当事者は住友化学の皆さんのことをそう呼んでいた)のひとり、ある若い女性が語ってくれた。「私たちはただ、球拾いをしているだけという感覚ですが、障害者の方にはその球拾いが大変なこと。少しでもお役に立てればうれしいですし、試合が終わってお礼を言われると本当にうれしいです。それにしても、障害のある人たちがこれほど真剣に試合に臨んでいるなんて思わなかったです。私たちも卓球がしたくなりました」と、むしろ、選手たちから力をもらったと言わんばかり。
1日目が終わって、バスに乗り込む選手に「今日、あなたの後ろにいました」と声をかけるブルーのボールパーソン、「どうもありがとうございました」と選手。そこから会話がはずむ。そばで見ているこちら側までがホッとするひとときだった。
2日間でのべ91名もの住友化学のボランティアの人たちが大会を後押しした。 
卓球台やフェンスを整理し、真面目に球を追う姿と、必死でプレーする選手たちの共有する空間に、うそ寒い世間の風潮を忘れるほどだった。

〈発行人・高橋和幸〉

 
   
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